もっと精度の高い言語化をしたいという話とか言葉の限界性とかそういう話

 

言語は意思を他者に伝えるツールであると共に、自分の中を整理する道具でもある

ぼくのりりっくのぼうよみは、言葉とは頭の中用の絵の具であると言っていた

 

的確な言語化で的確な状況把握ができたり、思ったことや感じたことを思い出すための優秀なトリガーになる

 

 

作文を書くとき、〜と思いました 〜と考えました という形式を使って文を書く

思う という動詞よりも、今の動作をより的確に表す言葉があるんじゃないかと少しもやもやしながら日々文章を書いている という話

この言語化をもっと丁寧に、より的確に行えるようになりたい

 

生の対話中はスピード感が大切なので、ニュアンス重視で言葉を発している

今日この話をしていた人は、対話中も言語化を丁寧に行いたい気持ちがあるのでぽんぽんとスピード感のある会話ができないと言っていた

 

私は絵を描くときのキャプション(作品の説明文)の話をした

作品に思い入れがあればあるほどこの文章をないがしろにできない

もっとより良い表現があるのではないかと

考えずに使いやすい形式に嵌めたくないと

 

話し相手は音楽を学んでいる

ピアノを弾いている

曲を弾く際に提出するレポートに作曲家の生涯や曲の背景などについて文章を書く

わたしと同じように感じるという 

 

話し相手は、わたしが使わない語彙を使っていて面白かった

共感通り越して"共鳴"した と言っていた

あと、人は短所で愛される とも言っていた

ピアノを弾くことを、白と黒の音符にどうやって色を付けていくか、というドラマチックな表現をしていて惹かれた

 

さっき、生の対話中はスピード感が大切なので、ニュアンス重視で言葉を発している

と書いたが、諦めたくない。

 

個人的な感覚だと、脳の中にある言葉にも 予測変換的な機能が備わっていて、ブログでもツイートでも会話でも、頻繁に使う言葉はすぐに引き出せるようになっている

 

つまり、精度の高い言語化を行う機会を設ければ、普段の生の対話でもそれが可能になるのではないかという希望に行き着いた

 

星野源のエッセイで、わたしが特に好きな部分がある。

創作は蛇口から出る水のようで、蛇口をひねることをやめて創作から遠ざかれば、次に開く時に出るのは濁った水で、ひねり続けることで、次第に水は透明度を増し、より洗練されたものになる

という話。

言語化もまた、そのエッセイで言われている 創作 の側面があると思う

 

言語の限界性は、人によってその言葉の持つ意味の解釈が異なる(全く一致しているという確証がない)というところにある

だから、私が思う意味とこの文章を読んだ人が思う意味とでそれらが完全に一致するとは限らない

また、それを測る方法も無いという点に関しては、水糊で貼った紙の接着面にどうがんばっても発生してしまうシワに対するのと同じ種類の諦め がある

 

それでも、自分で書く日記やブログは、私の中から湧いた言葉なので、私のものだ

私が支配しているので、少なくともその時点ではそこにシワはできていない

考えが変われば、そこにもシワはできるのだろうが。

 

だから、幸いなことに最近ブログが習慣付いてきたので、ここでくらいは丁寧なアウトプットを行いたいと思う

 

他人とこのような話をできると思っていなかった

今日の感動を忘れないように、ここに書き留めておきたい

 

もっと色々な文章を読んで、単語や書き方の形を頭に入れたい

 

 

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