いつもより長い文章

友達のもとから帰る

 

帰りの電車を待っている

雨で遅れているのでこれを書いている

 

電車を50分待つ世界には慣れた

というか待つことが苦ではなくなっていた

まあ待つやろなあみたいな

 

帰省するたびに地元への愛着が湧くと言っていた人がいるけどそんなことはない

地元に帰ると自分を俯瞰している自分に気付く

 

大学の人たちに向ける姿と中高の友達に向ける姿の対比

 

どちらが好きとかいうのはないけど中高の人の方が楽

 

まあ当たり前か

単純に触れ合っていた時間が長いので

向こうのスタンスもわかるしこちらもそれに最適化されている

そもそもとても気の合う人としかわざわざ会わないしね

 

 

とても気が合うと思っている人、誘ったら会ってくれる人とか誘ってくれる人が複数いるのはとてもありがたい

その人たちに出会っただけでも地元にいた意味があったと思える

 

 

今日会っていた友だちは大学院に進学すると言っていた

一緒にいるときに、

ぼくは春から新社会人になってトウキョウの途方もない海に放たれるんや…とかなんとか嘆いていたら、

いつでも帰ってきていいけんね、この陸に… などと言っていてそれがすごく優しかった

 

 

そういえば最近ツイッターを開く時間が減ったと思う

別に欲しくない情報があふれていて無駄にすり減っているのではないかとか感じている

欲しい情報源だけを細胞膜みたいなので包んで発信を取り出したい

ツイッターはフォローしていない人の言葉が目に入る、想定していない界隈や段階の人の発言が頭に入るのが漠然と不快なときがある

辛いことを考えたくない 

まあとはいえじゃあTwitterやめますみたいな極端なことはできないと思う

 

以上はなんの解も出ない無の文章だったけどそもそも"有"の文章を書いていた記憶がないのでまあいいだろう 私のブログはそういうものだし

 

 

ブログを書いていて日常を文にすることに慣れてきたのか、"有"の文を生まなければならないみたいな(せっかくわざわざ書くのだから的な)自分への無意識の圧力がなくなって、それは良かった

作文とかだと有の文を書かなければならないので、それくらいしか文を作っていないと無意識の圧力によって有の文以外を書けなくなる思い当たりがある

この文書いた意味あるのか?とか考えてると何でもないブログは書けない

 

 

父親の日記が実家にあって、帰った時にたまに読むのだけれど、時代を感じて面白い。あとは何を言っているかわからないところがあって、人は全然わからないなぁみたいな感想を持って閉じることがある

おそらく今の私と同じくらいの年齢のときの記録だから語彙とかはそれほど変わらないはずなんだけどね

自分のブログでさえ、過去のものを読み返すと 何を言っているのかしら となることはまあまああって、それは変化したのだなあと思って面白い

別人級に変化したってことだよね

 

 

物質が増えるのがイヤなので、データで蓄積されるのもいい