作品と作り手について

作品と作者の人格は別に考えるべき という考えの人がいる

 

ぼくのりりっくのぼうよみが没落寸前に、説教ババアウザすぎワロタ と発言したときに一部のファンは あんなに曲は素晴らしいのになんでこんなこと言うの?引いた、完全に熱が冷めた、好きにならなければよかった とつぶやいたり、ラストライブのチケットをリセールに出したり、破って捨てたりした人もいたらしい

 

あの発言は彼の本心であったが、また一つの策りでもあった。

 

ラストアルバムをリリースする際に、これまでのような新星とか天才とか持て囃されながら売り出されたちょっと賢めの可愛い感じの少年というポジションの歌手が "没落"というタイトルで出しても説得力が皆無なので、作品を一番輝けるところに出したいという彼の意思で、あえてネットで炎上したり、ヘキトラの一員になったり、やたら気恥ずかしいダサいポエムなどを紡ぎ出したりした。(愚かな人間が愚からしく没落する様を自分の身をもって表現したということ)

引退のあと、音楽雑誌のインタビューで 作品に輝いてほしい、一番いい場所にいてほしい、愛する子を身を呈して守る母親のような心境であると語っていた。

 

 

そのような彼の考えは、もちろん一連の引退騒動が終わってから語られたものだ。だから、その様子をリアルタイムでみてた私にとっては 自分が作品と作り手を別個にしてみているかそうでないかという発見をすることができたというわけだ。

 

私はタイムラインに急に 説教ババアウザすぎワロタという推しのツイートが流れてきても  アラ、なんか言ってんなあ くらいしか思わなくて、でも彼らしくないからなんか考えてることがあるんだろうなあ みたいな感じで過ごしていた

 

幻滅した、とか人前に出るような人がそんな発言するなんて最低 みたいなことは思わなかった むしろ、まあそうだよねとか、実際思ってるけどここでは言ってなかったこととかあるよね(売り方として露骨に敵を作るのはどうなのか) とか そういうことを思っていた

 

説教ババアというのが自分に当て嵌まらなさすぎて気持ちの昂りがなかった可能性はあるが、まあぼくりりに限らずわりとあらゆるところで割り切っている方だと思う

 

いやもしかして、作品を好きになる→人格を好きになる という順番が鍵なのかもしれない

人格を好きではない→作品を好きにならない(坊主憎けりゃ袈裟まで憎い) のか?

 

よくわからなくなってきた

まあ1つ言えるのは、中の人とか作り手の人格にそれほど興味が無いというのがある

 

作り手と作品を同一というかわけないで考える人もいるよね 

自分はツイッターとかインスタとかで絵を投稿しているけど、人間性で人を惹きつけるような自信がない限りはそういうのが露呈するツイートは控えた方が安全だよねとは思う

出せば嫌われる確率は高まるから

出さなければ確率はゼロなので

まあそれは、たくさんの人に見てもらいたいという気持ちがベースにあるという前提があって、私は今はそうではなくなってきているので好きに呟いている

 

し、今のこんな感じがインターネットの人に脅かされてなくて丁度いいな〜とも感じる

ぼくのりりっくのぼうよみは、生前こういうことを考えすぎてすごく窮屈だったと話していた

 

まあでもめちゃめちゃ 人!間!性!みたいなツイートしまくってると、ちょっとスカしたキャプション書くときかなり恥ずかしいのは弊害やわぁと思っている、そこは頑張って意識を殺してツイートボタンを押している

 

インスタだと絵の投稿しかしないからかっこつけたキャプションでもまあ耐えるけど…