かけられたのは魔法か呪いか
このブログの公開設定を迷っている
いつか鍵記事にして自分だけのものにするかもしれない
小学4年〜6年生のころ、母や姉からノイローゼといわれるくらいランドセルの中身を毎晩毎晩チェックしていた
忘れ物をするのが怖かったからだ
朝に、もう5回チェックして、それでも不安で怖いけれどようやくランドセルを背負えた
忘れ物をすると怒られる、怒られるのは怖い、怒られたくないという気持ちの度が過ぎて神経質になっていた。
母はよく、あなたはとても几帳面ね。 と言った。
それは褒められている意味ではないということを分かっていた。
成人した今、私は一人暮らしの家に遊びに来た母親を驚愕させるくらいの汚い部屋に住んでいる
人のせいにするなと言われればそれまでだけど、几帳面なのは良くないなら雑におおらかにやるのがいいと思い込み、それを選択し続けてしまったことは"仕方がなかった"と思う
これは呪いで、成長してから呪いから解放されたいと願い行動し、実現するのはたいそう難しいと思う
けれどこれは治したい。
一方で、自分は頭が良くて優しくていい子だと、そう思って生きてこれたのは、周りの大人が魔法をかけてくれたからだ。
私は自己肯定感がとても高い方だと思う。自分自身を愛しているので、物事に執着することもなく潔く生きていけている。本当にありがたく思う。
魔法や呪いを知らないうちにかけられている。
家族とか、近しい友人とか、恋人とか、親密な関係になればなるほどそれらの効力は増して怖い。
呪いから解放されたいと願い足掻く。
呪われていることに気づかずに、可能性を無視する(せざるを得ない)のは勿体ないというか、自分の人生を生きていないなあと思う。
抽象的な言葉は事実を事実で伝えるよりも別の含意を感じさせるところに恐ろしさがある。
占いの結果みたいに、自分にとって都合のいいものだけ信じればいいと思う。というか私にはそれが向いているのでそうする。
何が正しいのか定義されていない世界では、自分が心地よく息ができる選択を正解だとおけばいい。私は占いに対する私の姿勢が好きだ。
呪いを呪いだと理解する感性を持つには、外部との関わりが要る。本を読んだり、映画を観たりすることは自分の外からの刺激になる。その刺激によって内に張り付いた呪いが浮き彫りになる。刺激のインプットの方法はツイッターでも十分だと思う。
それからは自分の人生に必要ならばそこから解放されるために動き出すエネルギーを蓄える。