うずらの水煮と内定式

 

内定式だった

人間は逞しいといった感想

私はとにかく知らない人が多い場所が好きなので、楽しかった

 

軽くない課題が出されたので今日からやろうと思う

 

休憩時間にツイッターを見ていたらDMが届いていたので開くと、明日会う人がわざわざ電車の時間を送ってくれていた、親切だ

フラットな関係だと何とも思わないことも、特別な感情があると不満に思ったりより好感を抱いたりするなあと、夏を思い出したり出さなかったり。

でもあれは諸々抜きにしてもやっぱダメかもしれない

 

 

懇談会で立食したけど家に帰るとそれなりにお腹が空いて、アイスを食べた。

冷蔵庫にうずらの卵の水煮があったので、醤油と酒とみりんと水で煮た

これが美味しい

一般的に煮卵は冷たいものが多い

というか、我々の口に入るときにはすでに冷たいときが多い というのがより正確

卵はレンジにかけてはいけないので、出来立て以外であたたかい状態ではそうそう味わえない

出来立てのうずらの煮卵は当たり前だけど温かい、温かいものはうまいから

 

ウズラの卵が美味しすぎたので、今は鶏卵を茹でている

茹で時間で文字を綴っている

 

食べ物について書くようになったのは、食べることと距離が出来たからだ

距離がないと意識は向かないから

 

 

内定式に向かう道中、ぼくのりりっくのぼうよみの音楽を聴いていた

聴きながらweb漫画を読んでいたのだけれど、

ぼくのりりっくのぼうよみの音楽は彼に語りられてるみたいでBGMとして機能しないことが分かった

意識のメインに躍り出てくる

背景にならない音楽との邂逅

こんなことがあるとは

 

やりたいことが異様に沢山ある

マルチタスクマルチタスク

立ちマルクスチルタリス(しっくりこないアナグラムと文字面が似ているポケモン)

 

 

友達が、日記は人の目がないから続けられない

ブログはオチを作る必要があるのでちょっと

みたいなことを呟いていたのを見た

このブログにオチはない

むしろオチがないのもいいと思う

ブログの文章は型にハマる必要はないのがいいと思う

起承転結とか論理性とか、そういう型を考えずにただ湧いたものを書き連ねる

少なくとも私はそういうブログの書き方をしているし、誰かがそういう書き方で書いているブログがあればかなり、読みたい

 

なんなら散文詩でもいい

 

時代なのか知らないけど、人も世も"有"を求めすぎると常々思っている

 

私は無が読みたい、無が欲しい

あわよくば他人の無も知りたい

何が楽しくて何が気持ちよくて何が不快で何がめんどくさかったか何をしなかったかを知りたい、最近の行き場のない葛藤や不義理を知りたい

 

さまぁ〜ずトークライブはおかゆのようだと表現している本を最近読んだ

コントや漫才は、笑わなければいけない と思いかしこまってしまうけれども、トークライブは息を詰まらせなくてよくて、きついときにも腹にするすると入るおかゆのようだという意味で

 

わたしはこのように無を吐き続けていると段々とクセになってきていて、なんやかんやこのブログはまあまあ続いている。ていうか無を吐くことが習慣化しているとも言えるので、これはある種のtoxicだと思う

今私の無を長く吐けるのはブログ

ブログなら通知も1日1つでいいしね

つまりわたしにとってのブログはおかゆですという話

書くのも読むのも

 

なんかあと一個書きたかったことがあるんだけど忘れた

思い出したら明日以降のブログに書くか、ツイートする

 

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あ〜タイムラインに通知出したら書きたかったこと思いだしたわ

残したかったのでここに記録する

かわいい女の子がかわいいって言われてるのを鑑みるにわたしは別にかわいい外見をしているわけじゃないけど私は私の持ってる顔が嫌いじゃない、ていうかむしろ好き

ということ

 

ふふん、いいだろう